兵士デカルト―戦いから祈りへ
- 著者: 小泉 義之
- 出版社: 勁草書房
- サイズ: 単行本
- ページ数: 268p
- 発行年月: 1995年11月
- 定価: 2940円
読書メモ
グロティウスと並ぶ、八十年戦争時代の偉大な哲学者。哲学的な議論はこのサイトの趣旨ではないため、入門書・著作以外でちょっと視点の違うものを2冊ピックアップしてみました。
オランダ生まれでプロテスタントのグロティウスが、フランスに逃れて生涯を過ごさなければならなかったことに反して、フランス生まれでカトリックのデカルトは、自らオランダで暮らすことを選んでいます。いずれも晩年はスウェーデンがらみで命を落としていることも興味深い共通点です。
当時のオランダ軍では、基本的にカトリックの兵士はNGです。とはいっても数を揃える必要があるので、「兵卒」に限っては、事実上宗教問わずという感じになっていっていました。が、あくまで将校はプロテスタントの者と規定されています。デカルトは貴族の出でもあり、一度もカトリックから改宗したことはないはずなので(事実オランダ軍のすぐあとにカトリックのバイエルン軍に仕官しているので)将校としての志願だったんでしょうね。
ちょうどデカルトがオランダ軍に在籍した1618年~1619年4月は、まさにオランダ国内でプロテスタント同士が、しかもカルヴァン派同士が派閥抗争をしていた最盛期です。しかもデカルトが暮らしたブレダはナッサウ伯ユスティヌスが知事を務める街で、より排他的な厳格派のほうが幅をきかせていたと思われます。そんな中にあっても他国の志願者が引きも切らないという状況は、この休戦期のオランダ軍がある種の軍事アカデミー化していたことの証左ともとれるでしょう。
いただいたご質問への歴史学からみた回答
「なぜデカルトは軍隊に入ろうと思った際に、レイデンではなくブレダを目指したのか。ブレダはそれほど特別な場所なのか」。 という趣旨のご質問をいただいたため、ちょうどこの書籍を題材に、管理人なりの回答をしてみたいと思います。過去に書いた読書メモがあまりに杜撰(読書メモになってない)だったため、その書き直しも兼ねています。とはいえ、管理人はデカルトの著作に明るいわけではないので、この本もまともに読めるのは第一章のみ、ということをあらかじめお断りしておきます。
それにしてもこの第一章、いきなり過去の研究者の説をばさばさと斬り捨ててますね。同業者(哲学者)的な書評はどうだったのかな…と気をもむレベル。だいぶ強引と思われる議論も、妙に納得させてしまうパワーはあるのですが。管理人は、潔いまでに「兵士」を肯定したこの本に、基本的には賛成の立場です。
上にはオランダ軍が軍事アカデミー化なんて書きましたが、デカルトがオランダ軍に志願したのは「もはやいかなる学問も求めまいと決心して(方法序説第一部)」との意思あってのことのため、学問を志していたわけではないことは明白です。ポワティエ大学で学位を得たばかりのデカルトは、机上の学問に疑問を感じて「あちらこちらの宮廷や軍隊を見(方法序説第一部)」ようとしたわけなので、レイデンは眼中に無いでしょう。ブレダにはたまたま自然科学者のベークマンが居てデカルトと親交を結ぶことになりますが、これも単なる偶然であって、ベークマンが居るからブレダに行った、という因果関係があるわけではありません。
これは方法序説の記述に則った見方ですが、さらに歴史側の見方で考えてみます。方法序説は確かに歴史学的にも一次資料ではあるものの、同時に22歳時点でのデカルトが書いたものではない、という一面もあります。未来に居る我々は、後の哲学者としてのデカルトを知っているというバイアスのもと後付けで理由付けをしがちですが、その時点でのデカルトは学問を修めたばかりのフランスの小貴族です。そんな一介の若者が他国の軍に志願する場合、どこに行きたいとか学問がしたいとか、個人的な希望はほとんど斟酌されないのではないでしょうか。デカルトが過去を述懐した方法序説と並行して、1618年~1620年当時のヨーロッパ情勢およびデカルトの行動そのものから、複合的に本人の意図を推し量る必要があります。
当時のオランダは休戦中ということもあって、アムステルダムやハーグといった都市部に大規模な軍隊は必要なく、軍が必要なのは主に国境沿い駐屯地です。ベークマンにたまたま出会ったのと同様、志願したら偶然配属されたのが南部国境の要地ブレダだっただけかもしれません。または、フランス人且つカトリックのデカルトがオランダ入りする際のルートは、地理的にスペイン領南ネーデルランド経由の可能性が高く、そこから最も近いブレダの駐屯地での徴募に応じただけのことかもしれません。
オランダ軍が来るべき戦争再開に向けて技術革新を進めていたこと、それを目的に各国から貴族の子弟が集まってきていたことは事実です。しかもオランダは休戦条約中ですから、戦争の真っ最中でもなければ少なくともあと3年は戦闘行為がないであろうことも予想できます。学問目当ての人間にとっては理想的な環境でしょう。ですがデカルトはそんな軍事開発に寄与するでもなく、オランダ軍には半年と腰を落ち着けずに、さっさとバイエルン軍に鞍替えしてしまいます。
「あの戦争(三十年戦争)に心ひかれて私はそこ(ドイツ)へ行っていたのである(方法序説第二部)」。仮に、デカルトが数学の研究目的でオランダ軍入りしたのなら、オランダから遥か遠いボヘミアへ自発的に向かうのは非常に不自然です。20年近く後のデカルトの書簡には、その理由は「武器を好ましめた肝臓の熱」とあります。要は当時の若者たち同様、血気にはやった、と文字どおりシンプルに解釈して差し支えないかと考えます。
1618年の前半は、前年にグラディスカ戦争にも決着がつき、ちょうどヨーロッパ中が小康状態だった時期にあたります。比較的大きな単位で兵を徴募していたのは、常時募集のオランダくらいだった可能性もあります。それがデカルトのオランダ軍入りとほぼ時を同じくしてボヘミアで反乱が起こり、翌1619年には皇帝やカトリック諸侯も軍を集め始めました。デカルトは4月にはオランダを離れ、デンマーク→ポーランド→ハンガリーと大回りにヨーロッパを横断し、7月にフランクフルトで皇帝の戴冠式を見た後、バイエルン軍に志願します。しかもその後もすぐにブッコワ伯(ボヘミアの反乱鎮圧のための皇帝軍元帥)の軍に移り、1620年「白山の戦い」にも参戦した可能性が示唆されています。足跡だけをみても、よりキナ臭い側に自ら進んでいった様子が見て取れるわけです。
文中で引用した『方法序説』はこちら。 デカルト『方法序説ほか (中公クラシックス)』
- 著者: デカルト
- 出版社: 中央公論新社
- サイズ: 単行本
- ページ数: 406p
- 発行年月: 2001年8月
- 定価: 1350円
~Further Reading~
デカルト=エリザベト往復書簡
- 著者: 山田 弘明 (翻訳)
- 出版社: 講談社学術文庫
- サイズ: 文庫
- ページ数: 339p
- 発行年月: 2001年11月
- 定価: 950円
読書メモ
「哲学者と王女の対話 デカルト46歳、王女24歳の出会いから7年余、60通の交信録」 と、出版社情報にもあるように、文字どおり往復書簡集。文句なしの一級資料です。もっとも、個人的には手紙の内容よりも注のほうが楽しかったりもしますが、それでも、当時の世の中の様子がそこはかとなく手紙の節々にあらわれていて、1640年代の、ウェストファリア条約に向かう世情を垣間見ることができます。
ところで、もちろん現代の郵便事情とは違うものの、当時の郵便網の発達にも驚かされます。デカルトもエリーザベトもこの文通を続けている間、それぞれ居所を何度か変えていますが、到着が遅延したり前後したりはするものの、けっこうな距離をちゃんと本人のもとへ転送されています。ここに載っている60通が書簡のすべてではないかもしれない、と訳者も書いていますが、それにしてもこれだけの量の手紙の写しが現存しているのはすごいことです。